茜〜扉〜

 姉さん、すごくがんばってるな・・・。

 欅町駅に戻る道すがら、今日のリハビリを思い浮かべる。
 額に汗を浮かべながらも補助棒を使いながら一歩、また一歩と足を出していく姉さん。足に神経を集中させ、しかし前を見て少しずつ進んでいく・・・。何度転んでも起きあがって、また足に集中。転んでは起きて、歩いては転んで・・・。

 最近の姉さん、リハビリの時とかの集中力が違う。あれだけの集中力、私が試合の時にでも滅多に出せないほどのもの。私が見てきたトップレベルの選手たちが、ここ一番で発揮しているのと同じくらいのね。そういえば、あのころの水月先輩もすごかったな・・・。

 それとは逆に、最近の私はどうしちゃったんだろ・・・。この前の県大会でも優勝はしたけど、自己ベストには遠く及ばない。決勝になっても、余計なことばかり頭に浮かんできて、泳いでいても雑念ばかり。鳴海さんが姉さんを選んでくれたときに、心配はすべて解決した。・・・そのはずなのに。



「あ・・・・・・」

 欅町の駅についたとき、人混みを避けるようにして改札脇に立つ人影が見えた。

「水月・・・先輩?」

 私の声に反応して人影が振り返る。水色のスーツが夕焼けの赤に映える。水月先輩は私に気づくと、にこっと笑って手を振ってきた。・・・前に鳴海さんの家の前で会って口論して以来だから、何日ぶりだろう?あれから水月先輩は鳴海さんと完全に別れて・・・。

 でも、なんでこんなところで?姉さんに会いに行くのなら病院に直行するはずだし、もちろん鳴海さんが来ない日を狙って、ここにいるみたいなのも確か。ちょっと不思議に思いながら、どこかぎこちなく水月先輩の方へ歩み寄る。この間、私も興奮して喧嘩別れみたいな感じになっちゃったからな・・・。

「茜、明日・・・暇?」

 どうしたんですか?と言おうと口を開きかけたとき、先に水月先輩がちょっと遠慮がちに聞いてきた。明日は久しぶりに練習も休み。暇と言えば暇なんだけど・・・。

「暇、ですけど・・・?」

 先輩の意図が分からない。戸惑いながら答える。

「プール、行かない?」

 ・・・え・・・プール?私・・・と?

「え、私とですか?どうして、そんな突然?」

 あまりにも突然のことだったので、私は思い切りうろたえていた。

「あ・・・ごめんね。そうだよね。休みの日はうちでゆっくり休みたいよね」

 少し申し訳なさそうに微笑んで謝る水月先輩。

「いえ。そんなことないです。ただ突然なんで驚いちゃって・・・。いいですね。久しぶりに水月先輩と泳いでみたいです」

 何か、うれしい。つい自然に頬がゆるむ。勢いとは言え、先輩に対して「狂ってる」とまで言っちゃった私を、こうやって誘ってくれるんだから。

「ほんと?ありがと、茜。待っていてよかったぁ」

「え?先輩、そのためにここで待ってたんですか?電話してくれればよかったのに・・・」

「茜ん家にかけられるわけないじゃない。それに茜の携帯番号、私知らないもの」

 あ・・・。そういえばそうだ。前は私、携帯持っていなかったし、最近まで水月先輩とは話しもしなかったし、会ってもいなかったんだから。

「あ、そうでしたね。で、明日は何時に待ち合わせしますか?」

 なんか、少しまだ他人行儀になっているな、私。やっぱりすぐ昔のように話すなんて、できない。

「うん。柊町駅に10時でどうかな」

「いいですよ。10時、ですね」

 二人とも改札を抜けながら話を続ける。先輩もあとは帰るだけみたい。会社帰りに寄ったのかな。

 帰りの電車の中、当たり障りのない話を少ししていたように思う。さすがに姉さんや鳴海さんの話をするわけにもいかないし。私の気分も、あまり人と話をできる状態でもないし・・・。
 

 
 ふうっ。何でだろう、突然。この前の鳴海さんの家の前でのこと、気にしているのかな。水月先輩と別れてから、帰りの道すがら考えてみる。

 あの時、私と言い争ったときの水月先輩、ほんとに追いつめられた目をしていた。それで周りが見えなくなってる、そんな感じだった・・・。

 そんな水月先輩に対して私はもっと追いこんでしまうようなことをいっぱい、いっぱい言ってしまった。あの時は私も、見境をなくしていた。我を忘れてしまっていた、と言っていい。

 それは水月先輩が、姉さんや鳴海さんを困らせていたからという理由だけでは、ない。なぜだか水月先輩の気持ちがよく分かって、その行動を理解できてしまったから。水月先輩のそうした行動に、むしろ嫉妬みたいな感情を覚えていたから。

『あなた、人を本気で好きになったことある?』

 だからこの質問にすぐに答えられず、「あなたは狂ってる」と言うしかなかった。

 どんどん先輩を追い込んで、どん底の状態で鳴海さんと別れるように持っていってしまった私。先輩、そんな私を許してくれたと思っていいのかな・・・。
 
 

「先輩、相変わらずいい体してますね〜。本当に3年間練習してなかったんですかぁ?」

 ほんと、あきれるほど水月先輩のからだは引き締まっていた。筋肉の付き方も、ヘタな現役選手よりもしっかりしている。胸が・・・少しだけ前より大きくなったかな。

「茜〜?人の胸見てそんなこと言ってたらスケベおやじみたいよ?ま、時々泳ぎには行ってはいたわよ。筋肉が脂肪に変わらないようにね。それより茜の方がいい筋肉してるじゃない。間近で見るとほんと、すごいわよ。見違えちゃったぁ」

 水月先輩が二の腕をぷにぷにさわってくる。ちょっと照れくさいな。

「えへへ。ありがとうございます。じゃ、泳ぎにいきましょうか」

「うん。茜、さっきの約束覚えているわね?」

「もちろん。先輩も覚悟はできていますね?現役選手に挑むんですからね〜」

 にやり。少しいたずらっぽく笑ってみる。プールにはいるとき、先輩は「入場料払ってあげるから勝負して」って私に言ってきたのだ。いくら調子が悪くても負けるわけはないと思う。
 

 
「レディ」

 私と水月先輩が台に並ぶと、スターターを頼んだ子が声をかける。先輩相手に手は抜けない。集中して・・・。
 
 え・・・!?

 隣の水月先輩の気配を感じつつちらっと目をやる。・・・これは、スタートから失敗できない。3年前まで、水月先輩がいつも見せていたのと同じくらい、集中しているのが分かる。

 先輩の力がどれくらい落ちているかは分からない。でも、先輩は本気で勝ちにきている。遊びだなんて、思っていない。私を、負かすつもりだ・・・!

 先輩の集中がプレッシャーになる。茜、大会の時と同じように飛び込めばいいんだよ。自分に言い聞かせてみる。
 
「ぱーん!」

 スターターの手が響く。しまった!ほんの一瞬、初動が遅れる。先輩はすでに動き出していた。すかさず飛び込むが、先輩が体半分リードしている。

 でも・・・これくらいなら挽回できる!すかさず追い上げに入る。私のベストは、3年前の水月先輩とほぼ同タイム。十分追いつけるはず。前半50mで追いついて、後半で差を付ければいい。
 

 ・・・おかしい。

 少しずつペースを上げているはずなのに、全然追いつけない。先輩は3年前と同じ力を維持しているの?ううん。それはあり得ない。絶対、追いつけるはず。さらにペースを上げる。うん。もうすぐ50m、ほぼ追いついた。あと後半で追い抜くだけ!
 

「はあ、はあ、はあ・・・。」

 後半。結局私は追いつくのが精一杯で、先輩に勝つことはできなかった。なんで・・・?私は手を抜かなかったし、水月先輩には3年のブランクがあるんだよ?

 息を整えつつも驚きを隠せない私に対して、私以上に息が上がっている水月先輩が口を開いた。
 

 「3年前ね、私は自分の気持ちの持っていきようが、持っていく場所が分からなくて悩んでいたの。遙への気持ち、孝之への気持ち・・・。泳ぎに集中すれば忘れられる、がむしゃらに水をかき分けていれば考えずにすむ。そう思ってしゃにむに練習したのよ」

 とぎれとぎれ、少し苦しそう。余力が残ってしまった私と違い、、今持っているすべての力を出し切ったみたい。

 それでも話を続ける。
 
「でもね、結局は茜も知っての通り、タイムを落として実業団行きを・・・あきらめた」

「あれって、結局全部、自分のせいなんだよね」

 私は黙って水月先輩の言うことを聞いていた。先輩、最近の私を見てくれていたんだ・・・。悩んでタイムを落としている、集中できずにずるずる来ているのを全部、知っているんだ・・・。
 
「私が今言えるのはこれだけ。茜、あなたの答えは自分で出すの。自分の気持ちと向き合うことを・・・忘れないで」

 私の目を見て水月先輩は話しかけてくる。先輩もすごく悩んで傷ついているはずなのに、私を心配してくれている。なんて、なんて先輩なんだろう・・・。
 
「私はそれに気づくのにずいぶん時間がかかったけどね」

 あはははっ。高校の時の水月先輩がよく見せてくれたあの笑顔がそこにはあった。私の大好きな水月先輩がそこに、いた。

「というわけで、焼きそばよろしく〜」

 今度はちょっと意地悪そうな笑顔になって手を振る水月先輩。あ〜っ、そういえば負けた方がおごることになっていたんだ!

「私がタッチの差で先着だったと思うんだけど〜?」

 にやにやしながら、早く行って来て、と言わんばかりに売店の方を見る。

「あ、あ、あ、あれは同着ですっ!」

 あわてて反論する私。ぜっっったいに負けていないですからねっ。

「ふ〜ん、茜は3年もブランクある人とやって、同着でも負けじゃないと言い張るんだぁ?」

 う・・・。この人には絶対に勝てない・・・。鳴海さんや姉さんになら言い負かされることはないのにぃ・・・。

「先輩〜、社会人が後輩の、しかも高校生におごらせるんですかぁ?」

 最後の抵抗を試みる。なんだか久しぶりだな、こういうの・・・。

「甘いわね、茜。勝負は勝負よ。さ、早く買ってらっしゃい」

 勝ち誇ったように微笑む水月先輩。なんて、こうした表情が似合う人なんだろう。

「はいはい。分かりました。焼きそばですね」

 はーっ。仕方ないといった表情でため息をつく。でも、負けっ放しはやっぱり悔しい。先輩に大盛り食べさせて泳げなくさせちゃうんだから。



「ぷは〜っ、もう泳げないし、もう食べられないっ」

「私もです。私たち、なにやってるんでしょうね〜」

 あはははははっ。水月先輩と顔を見合わせて笑う。こんな暴飲暴食、コーチに見つかったら怒られるだろうな。でも、それよりももっと大切なことを水月先輩に教わった。それに吹っ切れてはいても、先輩自身も傷はまだまだ深いと思う。少しは先輩の力にもなれたかもしれない。

「茜、ありがとね。久しぶりに思いっきり楽しめたよ」

「でないと困りますっ。こんなに疲れる休日にはなるとは思わなかったんですから」

 結局あれから、泳いでは食べ、泳いでは食べの繰り返し。1本目の勝負で全力を出しきった水月先輩は、私にその後勝つことはできなかった。それが一層、一本目の水月先輩の集中力の高さを明らかにしていた。
 
 

 プールからの帰り道、水月先輩のことばを考えてみる。

『自分の気持ちと向き合うことを忘れないで・・・』

 私がやらなくちゃいけないこと。姉さんや水月先輩とは関係なく、自分の気持ちと向き合うこと・・・。これまで自分が無意識のうちに隠していたこと。

 3年前の夏、水月先輩も同じことで悩んでいたのかもしれない。突然記録を落としたあの夏。自分を正直に見つめて、一生懸命考えて、それから自分を受け入れて・・・。なんて当たり前で、なんて難しいんだろう。

 誰かを好きになることと、それに気づくこと・・・。それはいつも同時に起きると思っていた。でも、違うんだよね。知らないうちに人を好きになって、無意識のうちにそれを隠してしまう・・・。そういうこともあるんだね・・・。

 気づいてしまった今、自分の気持ちを素直に受け入れよう。告白するかどうかはわからない。でも、ここから歩き始めよう・・・。私、鳴海さんのことが好きなんだ・・・。
 


「ただいま〜」

 玄関の扉を開ける。自分の知らなかった心の扉も開いた。そんな気がした。
ギャラリ〜へ